FAカップのトッテナムとボルトンの試合をESPNの中継で観ていた僕には、とても重苦しい時間だった。実況のジョン・チャンピオン氏が「ムアンバに何かが起きている」と言ったと思ったら、程なくカメラは遠いアングルになった。詳細を映さないようにするためだ。背筋がゾッとした。
心停止で倒れて病院に運ばれたムアンバの治療は現在も続いていて、メディアもかなりの割合にこの話題を取り上げているが、その中で「インディペンデント」紙のサム・ウォレス記者が、今の危機的な状況ばかりに目を向けるのではなく、彼が先駆者となっている部分にも再度着目すべき、とのコラムを掲載。
++(以下、要訳)++
彼が生命の危機と闘っている今こそ、ファブリス・ムアンバが若くして既に多くを成し遂げていることを振り返る価値があるだろう。事実、そこには、あなたがプレミアリーグでプレーする23歳から想像するであろう名誉や豊かさ以上のものがあるのだ。
昨年の夏にデンマーク行われた21歳以下のヨーロッパ選手権で彼が人生について語った際、12年前に家族がコンゴ民主共和国からロンドンに渡って来た話になった。彼は自分の過去をこのように語った。「それがアフリカさ。そうだろ?そういう大陸なんだ。常にドラマと戦争やいろんな事があるんだ」
その点について彼は正しいのだが、生き抜くためにコンゴ民主共和国を後にし、ムアンバは自分の人生に多くをもたらした。英国の最新の移民世代の先駆者となり、新しい国をイングランド代表として気持ち良くプレーできるほどに受け入れた。
記者会見で寄せられる場違いな質問のひとつが昨年の夏にもあり、イングランドのU-21代表としてプレーする際に英国国歌を聞くのはどのような気分か、と尋ねられた。彼は「ただ自分がどれだけ離れた所にたどり着いたかを考える。イングランドの人々が自分を助けてくれて、自分はその一部だと感じる」と答えた。
ムアンバがプレーするのを見るといつも、- そしてこの週末の出来事のずっと前だが - 私の同僚のイアン・ハーバートが2008年の10月に行ったインタビューのことを思い返す。インタビューは人種差別に反対する「Kick It Out」の後援でのものだったが、彼は自分の人生の話をありのままにそれでも愉快にしてみせた。
彼は11歳の時にどのように国を離れてイングランドに向かったかを詳しく語った。母親と共に東ロンドンに到着した時には、"Hello, how are you?"の4語の英語を知るのみだった。この未知の土地への旅が、アフリカに残るよりもベターな選択肢だった。彼の父親が大統領のモブツに誓う忠誠が、家族を危険に曝す恐れがあったためだ。
2008年のインタビューでは、まだイングランドについてよく分からない点があることを彼も認めていた。彼は学校で少女に「自分の国に帰れ」と言われることに悩んだ。それでも彼はそれを我慢し、特にアカデミーの選手としてプレーしたアーセナルで多くのサポートがあることを知った。アーセン・ヴェンゲルには個人的にも支えられた。
彼は、トレーニング場に向かうための正しい電車の乗り方やどのようにオイスターカードを使った良いかについて悩んでいる、とヴェンゲルに打ち明けたことを思い出していた。悩みは生活する知恵がないことだったのだ。ヴェンゲルは彼にすぐに慣れるとアドバイスし、そして彼は正しかった。
アメリカと同様に「イングリッシュ・ドリーム」なるものがあるとすれば、まさにムアンバはそれを実現した。彼がやってきたのは発展途上国で、アフリカでも最も危険な地帯の1つからやってきた。そして彼は輝いたのだ。フットボーラーとして成功した彼は勉学でも優秀で、通信制の大学で数学と会計を学ぶためにどのように準備をしたのかもインタビューで答えてくれた。
キンシャサで生まれたムアンバだが、イングランドのU-21代表でプレーする決断をした。彼はそこで33試合に出場したが、これは歴代2位の記録になる。彼はコンゴ民主共和国の代表としてプレーすることは難しいと考えている。そうしたオファーは、国に彼と彼の家族を連れ戻そうという政治的な罠だと考えられるからだ。多くの意味で、彼の決断は自身の埋め合わせでもあるのだが、だからと言って彼の重要性が変わるわけではない。
国籍についての人の考え方が極めて個人的で、出生証明書に何と書かれているかよりも、個々のアイデンティティと帰属意識がどこにあるかに関わってくる。ムアンバについて素晴らしいのは、彼がフットボーラーとしてイングランドを受け入れた最初の世代であり、イングランドが彼を受け入れたことに満足していることだ。
ムアンバは「僕はこの国に養子に来たようなものさ。みんなが僕を助けてくれたし、諸手を広げて歓迎してくれて、僕に機会を与えてくれた。普通の暮らしには十分過ぎる額を稼ぎ、快適な生活を送っている。これには本当に感謝しているんだ」と昨年の夏に語っている。
これは彼がイングランドの求めに屈しただとか、才能あるアフリカ人を帰化させろだとかいう話ではない。単純に、かなりをフットボールを通じてだが、ムアンバは彼の新しい「家」に結びつきを感じているということなのだ。それぞれガーナ、セネガルで生まれたマルセル・デサイー、パトリック・ヴィエラが、1998年のワールドカップを勝ち取った多様なフランス代表チームの一員になったのと同じであろう。
ムアンバには、今後続く多くの後進たちの先例であって欲しい。既に何人かは続こうとしているのだ。18歳のサイド・ベライーノはもうひとりのイングランドの世代別代表の一員だが、彼はブルンジで生まれて、政治難民として家族で移民してきたのだ。
これがイングランド・フットボールの良さだ。他のイングランドの社会と比べても、国の顔ぶれの変化を投影するという意味では抜きん出ている。イングランドの若年世代の代表選手の名前をFAのウェブサイトでチェックし、それをひとめくりすればその通りであることに気付くはずだ。もっとも、どの家族の物語も異なっていることは言うまでもない。
ムアンバはその夏のインタビューで「僕は自分の人生についてそんなに多くは語らない。もし聞かれれば答えるし、聞かれなければそれまでだ。そんなもんだよ。僕が話をすればいつだって『何が真実なんだ?』と聞いてくる。みんなは車とかそういうものに目が行ってるんだ。他のアフリカ出身の選手たちも同じように感じてると思うよ」と語っている。
寒い12月の夜にロンドンにやってきたムアンバの話は、移民の素晴らしいサクセス・ストーリーだ。彼が生命を懸けて戦うのを待つのは家族、友人、チームメイトたちにとっては耐え難い時間だろう。それでも、彼らもムアンバが自分のやり方で、既に後進が感謝しながら続くであろう道筋の先駆者となっていることを知っておくべきだろう。
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現在のところ、ムアンバが英語、フランス語で微かに話をし始めた、というのが最新情報。僕らが直接助けることができるわけじゃないけど、何とか回復して欲しいもの。
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