Tuesday, June 5, 2012

ブレンダン・ロジャース、リバプールでの挑戦に準備万端

先週はリバプールの新監督が、スウォンジーを率いていたブレンダン・ロジャースに決まったニュースが一番の盛り上がりを見せたが、その中で、彼のこれまでの歩みを記したBBCの記事に着目。記事自体は就任発表直前のものだけど、彼の指導者としての歩みが垣間見える良記事。

個人的には、「最初の仕事はスティーブ・クラークの解雇」と伝えられる中、かつてチェルシーにロジャースを推薦したのは、当時ジョゼ・モウリーニョのアシスタントしていたクラークというくだりには、不思議で皮肉な縁を感じた。(クラーク本人は、元々他クラブで監督としてのキャリアを積むために辞任の意向だったが、次期監督が決まるまで待て、とクラブが引き留めていた)



++(以下、要訳)++

ブレンダン・ロジャースはかつて、自分でも他のイギリス人の監督と比べると、自分が別の出自を持っているかのように感じる、と語っていた。

39歳の彼は、2004年に彼のメンターでもあるジョゼ・モウリーニョがしたように、自分を「スペシャル・ワン」 と呼ぶには至っていないだろうが、この柔らかな口調のアントリム出身の男が、ちょっと違うという印象は既にある。

ロジャースはこの2年間で 4人目のリバプールの監督となる。この北アイルランド人にとっては、キャリアの非常に大きな前進となる打診だが、彼も自分の手の届かない話だとは考えていないだろう。

過去2シーズンにわたって、彼はリバティー・スタジアムの落ち着いたオフィスを拠点にしていた。自動販売機が何台か置かれた角を曲がると、机ひとつに椅子ふたつ、それにコンピューターと書棚があるだけの部屋だった。

しかし、部屋が小さかろうが、そこを根城にしていたこの監督のポテンシャルだけはそうでなかった。

彼がアンフィールドで直面する任務は非常に重要だ。 しかし、彼が20歳で選手としてのキャリアを終えて以来持ってきた大胆な自信は、これまでになく確固たるものになっている。

北アイルランドで育ったロジャースは、亡き父マラキーが好んだ1970年代のオランダやブラジルのフットボールに魅了された。

彼は早々に印象の強い、コンパクトなディフェンダーとして成長した。1980年代半ばに受けたマンチェスター・ユナイテッドのトライアルでは結果を残せなかったが、16歳にしてロジャースはレディングに加わった。それは、彼が自分にはトップレベルに到達する才能が無いと自覚した時期でもあったが、彼のキャリアはケガによってレディングで1試合も出場しないまま終わってしまった。彼は20歳だったが、既に結婚し、子供も1人生まれるところだった。それでも、彼に危機感は全く無かった。

彼はすぐに指導者のライセンスを取得し、22歳にしてレディングのユース・アカデミーのコーチを任された。夕方は地元の学校で子供たちに教えつつ、あらゆる機会を活用してスペインの事実調査団として知識の拡大に努めていた。

彼はスペインに行くと、バルセロナ、セヴィージャ、ヴァレンシアで、そしてオランダでも過ごし、戦術的、組織的な手法に磨きをかけて行った。彼が自分の戦術のモデルをカタルーニャに求めた、という意味では、バルセロナで監督を務めていたペップ・グァルディオラも彼にインスピレーションを与えた1人だ。

やがてその野心と才能は、チェルシーでスタッフを務めていたスティーブ・クラークに見出された。クラークは彼をモウリーニョに推薦し、ロジャースはチェルシーのユースチームでの指導に招かれると、やがて彼はリザーブ・チームの監督となった。チェルシー時代を振り返り、「モウリーニョには大きな影響を受けた」とロジャースは語っている。

「彼は私に共通点を見出してくれていたこともあって、我々には感情的な親密さがあった。誕生日は同じ1月26日、コミュニケーションとハードワークを重視するところも同じだ。哲学も同じで、フットボールへの情熱と組織力を信じていた。そして、彼は監督になる前にビッグクラブでの経験があった」

モウリーニョも、同様に彼への称賛を隠さない。「彼の全てを気に入っているよ。彼は野心に溢れているし、フットボールの見方も俺と大きくは違わない。オープンだし、学ぶこと、コミュニケートすることが好きなんだ」

何よりもポゼッションに価値を見出すのは、ロジャースとリバプール、双方の基本に共通する点だ。スウォンジーでは、ロジャースは格上のはずの相手でもポゼッションで圧倒して見せた。「相手よりボールを支配することができれば、79%の確率で試合に勝つことができるんだ」、とロジャーズはかつて分析していた。

「私にとっての基本は組織力だ。ボールを持つのならば、動きのパターン、ローテーションの仕組み、チームの流動性やポジショニングについてよく知る必要がある。ボールを持っている時は、全員がプレーヤーだ」

昨シーズンのスウォンジーのパスの数字は、マンチェスター・シティに次ぐ2番目だった。「我々の考えは、相手が動けなくなるまでパスをするということ。そうすれば相手は追いかけて来なくなる」とロジャースは説明した。「最終的に相手は根負けするんだよ」

ロジャースにとって、ことが順調に進んできたわけではなかった。チェルシーでの成功は、ワトフォードへと道を拓き、2009年の夏にはレディングが連絡してきた。

 しかし、1年も経たないうちに彼はクビになり、20年間で初めての無職となった。「そうした不利な状況が、自分のキャラクターを作り上げるのだと思うし、自分にこうした人生を歩む資質があるのかを考える機会になる。厳しい時期だったが、レディングで起きたことが、私に失格の烙印を押すことだけは絶対に避ける決意だった」

スウォンジーで次の職を得られたのは、2010年の7月になってからだった。彼は過去を振り返ることなくこのウェールズのクラブをウェンブリーでのチャンピオンシップのプレーオフへと導き、レディングを4-2で下してプレミアリーグに引き上げた。「ウェンブリーで試合終了の笛が鳴った直後から、ウチはブックメーカーで降格の最有力候補、10ポイントも獲得できないとまで言われた」とロジャースは振り返る。

しかし、スワンズは上昇して行った。ロジャースは、他のどのクラブにも受け入れられなかった選手たちと共に、チームを11位に引き上げた。

リバプールで寄せられる期待は遥かに高いものになるだろう。昨季はカーリングカップを勝ち獲ったとは言え、チャンピオンズリーグ圏内からは17ポイントも離されてシーズンを終えた。

低迷し続けたプレミアリーグでの結果が、前監督でアンフィールドのレジェンドでもあるケニー・ダルグリッシュをその職から追いやった。オーナーのフェンウェイ・スポーツ・グループのチャンピオンズリーグ出場に向けた欲望は、これまで以上に強くなっている。

ロジャースは、しばしば個々の能力の集合未満のパフォーマンスしか発揮できずにいるチームを団結させなければならない。ロジャースもそうするしかないことは分かっている。

「私の大きな夢は、若手・ベテランのフットボーラーたちや指導者たちにイノベーションをもたらすような監督として成功することだ。指導者の道を選んだ理由はひとつだけで、それはフットボーラーとしてだけでなく、人間としても人々に違いを見せるためだ。私は常に教訓を得続けているんだよ」

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この記事が出た後、クラブから就任が正式に発表されて会見が行われたが、そこにはリバプールの伝統や特別さをわきまえた言葉が並んだ。


スウォンジーで起こした奇跡とリバプールの復興はまったく異質な仕事とはいえ、こうしてここまでの経歴を見ると、どこか上手く行って欲しいとも思ってしまうもの。まー、スパーズを超えない程度でお願いしたいところ。

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