この間のジョナサン・ウッドゲイトのコラムで僕の心を揺さぶってくれた「ニューヨーク・タイムズ」紙のコラムには、アメリカのメディアの割に、結構読み応えがあるものが多い。今回は、不遇を囲ったマンチェスター・シティからアストン・ヴィラに活躍の場を移した、アイルランド代表シェイ・ギヴンについて。
++(以下、要訳)++
マンチェスター・ユナイテッドの引退するエドウィン・ファン・デル・サールの後継者探しは、ゴールキーパー・コーチのエリック・スティールがチーフ・スカウトとなり、何カ国ものリーグから幾多の候補者の名が挙がる中、1年以上かけられた。最終的に、20歳のダヴィド・デ・ヘアが選ばれ、ユナイテッドはアドレティコ・マドリーに1,800万ポンドを支払った。デ・ヘアは歴史上2番目に高価なゴールキーパーとなった。
しかし、新たなゴールキーパーを求めていたのは、ユナイテッドだけではなかった。アストン・ヴィラは、不動のスタメンだったアメリカ人のブラッド・フリーデルがトッテナムに移籍し、新たに監督に就任したアレックス・マクリーシュには代役を探す時間があまり無かった。しかし、マクリーシュ就任の1ヵ月後、シェイ・ギヴンが静かにヴィラ・パークにやってきた。
事実、ギヴィンが漂わせていたのは、控えめな態度だけだった。プレミアリーグで最も安定感があり信頼が置ける選手とみなされながら、ギヴンは真のワールドクラスへと正しい評価に近づくことを避け続ける、摩訶不思議な能力を発揮し続けてきた。
キャリアをスタートさせたのは、ケニー・ダルグリッシュが率い、プレミアを制したブラックバーン・ローバーズだったが、そこではティム・フラワーズからポジションを奪うことはできなかった。それでも、ダルグリッシュがニューカッスルの監督に就任すると、彼は再びギヴンと契約した。ギヴンのキャリアが花開いたのはここだった。このアイルランド人は、ダルグリッシュとその後任のルート・フリットのファースト・チョイスとなり、太腿の負傷でポジションを明け渡す時期があったにせよ、ニューカッスルで10年以上先発の座をキープした。
ギヴンは、ピーター・シュマイケルの引退後、ゴールキーパー問題に頭を悩ませていたマンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソンに見落とされていた。チェルシーやリバプール、アーセナルもギヴンをバイパスし、海外の高価な代替品を選んでいた。しかし、2009年のミッドシーズンに700万ポンドでマンチェスター・シティに移籍すると、彼もついに大きな決断をしたように見えた。ギヴンはそれまでのキャリア通りのプレーを続け、シティ・オブ・マンチェスター・スタジアムで輝いた。「テレグラフ」紙の選ぶ、この10年のベスト・ゴールキーパーにも選ばれた。
しかし、ギヴンが額面通りの活躍をしていると、シティからバーミンガムにローンで出ていたジョー・ハートがリーグで最も素晴らしい若手ゴールキーパーという評価を受け、ファビオ・カペッロのイングランド代表にも名を連ねるようになった。そして、ハートがローンから戻ると、ギヴンがベンチに座ることになり、プレーの場はほぼカーリング・カップに限られてしまった。十分な金額のサラリーを受け取れるのであればベンチに座り続けても満足、というのはでたらめな話で、ギヴンの場合もまさにそうだった。シティで、週給8万ポンドを受け取っていたにも関わらず、35歳のギヴンは大幅な減給を受け入れてヴィラに加わった。この補強は、退団していったフリーデルですら賞賛していた。
ボビー・サモラの2つの決定機を止めたフルハム戦でヴィラでのデビューを飾ると、3-1でブラックバーンを下したゲームでホームでもデビューした。ここで見ることができたのは、静かにかつての「安定感と信頼を併せ持つ」キーパーに戻ったギヴンだった。ユナイテッドでは、デ・ヘアのプレーは今のところ冒険に等しく、ファーガソンはシュマイケルやファン・デル・サールのような経験ある選手と契約しなかったことを後悔していることだろう。その一方で、ヴィラではギヴンがこれまで何年もしてきたように、静かに好セーブを続けている。
No comments:
Post a Comment